93:閑話:幻黒竜の親子

傷ついた幻黒竜が、ラチェリ郊外の森の奥をのそりのそりと鈍い足取りで徘徊している。
尻尾を含めない頭胴長が約12メートルはあろうかという、巨大な個体だ。

太陽の光を吸い込んでしまうほど黒い身体は、ところどころ分厚いウロコが割れ、剥がれ落ちてすらいた。
ウロコの奥の肉が浅く切り刻まれた部分は、表面が乾燥して引き攣(つ)れている。薄ピンク色だった傷口は、治療せずに数日放置したため赤黒く変色してきていた。

森奥に自生する薬樹木に身体をこすり付けるなどすれば、ここまで傷が悪化することはなかっただろう。
この治療方法は、森で生きる魔物にとっての常識。
幻黒竜も代々そうして生きてきた。もちろんこの個体も、薬樹木は知っている。
しかし、今回は傷を放置したまま。余裕がないのだ。頭の中はひとつのことでいっぱい。
虚ろな目でぼうっと森を眺めて、あまりにも無防備な状態で歩みを止めない。
周辺の魔物たちは異様な雰囲気を警戒して、チャンスだと襲いかかることもなく、遠くから様子をうかがっている。

この幻黒竜は、唐突に愛おしい我が子を失う悲劇にみまわれて、全ての気力を失っているのだ。
治療し、食べ、休むという生きる手段さえも見失うほど疲れきっていた。

幻黒竜は、つい十数日前までは”母”だった。
己の腹の中で子の生命の鼓動を感じ、卵を産み、大切に温めて孵した幼子を慈しんで育てていた。
ウロコがまだ柔らかい子竜を狙う魔物たちを威嚇して追い払い、油断なく目を光らせていたのが数年前。
栄養分が豊富で食べやすいミネラル・ワームを狩るために、ワームとアリを食べる土アリクイを遠方からじっと見張り、餌場を特定したら、爪の奥に土が入り込んで乾くまでひたすら地面を掘った。
自分の食事よりも睡眠よりも、とにかく子供を優先させていた幼少期、母の体調は辛かったが心は満たされていた。

ドラゴンの出産回数はとても少ない。
長い一生のうちに数回卵を産む程度で、さらに一度に二つ以上の卵が産まれる例はとても珍しい。
それゆえ、親が子にありったけの愛情を注ぐとても愛情深い種族だと言われている。

幻黒竜の場合は、卵を抱えている間はオスが寄り添ってメスを守るが、子が孵ってからはメスのみで子育てするという習性がある。
オスの方が身体が小さく、寿命が短く生まれるのだ。そしてオスの方が希少なため、父として最低限の役目を終えたらそのメスの元を旅立ち、複数の家庭を持つ。
この方法を受け継いで、幻黒竜はアネース王国内で約千年以上前から血統を繋いできた。

この母竜も愛情深く、いつまでも我が子の世話を焼いていたいと思っていたが……やがて、子竜のウロコが硬くなり成竜になる時期がやってくる。
母竜の方がかならず早く命を終え、子をこの世にひとり遺すことになるのだ。
いずれ子がきちんと生活していけるよう、伴侶を見つけられるよう、野生のドラゴンとしての生き方を教え、手を離してやるのが親としての役目。
そう自分に言い聞かせて、いつだって優しく気丈に微笑んでみせた。

子竜が初めての狩りの練習を迎える日の前夜。
母と子は、いつもよりピッタリと密着して眠った。

……そんな幸せな思い出も、今や母竜の胸をただただ苦く締め付けるばかり。
愛おしい子竜を思い出すたびに、少し距離をとって狩りから戻ったら巣がもぬけの殻だった時の絶望、数日前に折られた己の牙の感触、口内に残る血の味が、頭の中を深緑色に染め上げる。

憎い!
なんて腹立たしい……!

自分たちの幸せな記憶にまであいつが侵食してくるなんて。
あの深緑色の髪の呪術師の涼しげな表情が脳裏をよぎって、母竜はイライラと熱い鼻息を吐き出した。
熱風にあおられた木の葉の端が、黄土色になってしおれてしまった。

我が子が無残に殺されなければならなかった理由がどこにあるというのだろう。
しょうもない呪術師の気まぐれで。
これが運命だったなどというなら、そんなものは嚙み殺してやりたい!

呪術人形に強制転移させられたガララージュレ王国王宮内で、母竜はさんざん仇(かたき)を追いかけ回し、片腕を喰い千切ってやったのだが、気持ちが晴れたのはほんの一瞬だけであった。
そのあとは王国兵士たちの反撃もあり、退散せざるをえなかった。

アレを殺していたとしても、結局我が子は帰ってこないのだ……と考え瞳を伏せて、喉の奥で『グルゥゥ……』と切ない鳴き声を響かせた。

そしてさらに数日、幻黒竜はうつろに森をさまよう。
瞳はいつの間にか瞬きを忘れてしまい、水分を失って視界が霞んできていた。

***

目の前のぼんやりした森の風景に、あまりに違和感のあるハッとするような緑色が映った。
幻黒竜は訝(いぶか)しげにぎゅっと眉間にシワを寄せる。
まさか、あの深緑色の髪の呪術師かと思ったが……それにしては色が違う。
久しぶりに瞬きをして、じんわりと瞳を潤すと、若葉を思わせるみずみずしい緑色だと分かった。

そのまま数回瞬きして、完全に視力を取り戻す。
ドラゴンは強靭な肉体を持つ種族だ。多少自らを雑に扱って痛めつけても、回復は早い。

母竜の潤った黄金の瞳が見開かれる。
知らず緊張してしまい、全身の神経がピンと張り詰めていた。

さあっ……と一陣の風が吹き抜ける。
豊かな緑髪を揺らしている目の前の少女は、疲れ切ったドラゴンが呆然と見惚れるほどの美しさで、輝くような笑顔を浮かべていた。

『やっと、みーーつけたっ』

(!)

『ねぇ、あなたはさいきん たいせつなものをなくさなかった?』

話しかけられた幻黒竜が困惑したように半歩後ずさる。
少女の声は、驚くほどの自然エネルギーに満ちていた。
これはヒトではないな……と本能で悟る。
少女が笑った瞬間、周辺の木々がいっそう鮮やかに葉を色付かせ、まるで彼女の訪れを歓迎したようであった。
なにかおそろしく特別な存在なのだ、と正しく認識して、幻黒竜はぶるりと身震いする。

硬直するほど圧倒されていたが……問いかけの意味を確かめなければ、と早々に表情を引き締めなおす。

(この不思議な存在は、私の何を知っているというのだろう?
……亡くした大切なもの。そのようなものは私にとって世界にただひとつ、娘に他ならない。
だが、なぜそのような事を問いかける?)

母竜が緩慢に、すっかり乾いた口を開いた。
ズラリと鋭い牙が覗く。
そのうちの数本にヒビが入っているのを見て、少女は痛ましげな表情になる。

嫌な気分にさせてしまっただろうか、と母竜は考えたが、開口しなければ声が出せないので容赦してもらうことにした。
おそらくこの少女はドラゴンの言葉を理解するだろう、と根拠もなく確信していた。
他者に話しかけるのは随分久しぶりである。溢れたのはひどくしゃがれた声。

『……私を、見つけた、と今言ったな。探していたのか? なぜだ』

貴方は何者だ、とは問いかけなかった。
それよりも、はたして子竜のことを指して発言しているのかという点が気になって仕方がない。

少女は母竜の言葉を聞くと、嬉しそうに表情をほころばせて、こほんと咳払いする。
そしておそらく母竜が最も望んでいた答えを口にした。
鈴が鳴るような清らかな美声で、祝福の言葉をつむぎ出す。

『あのねっ! どうしてあなたを探してたかっていうと、わたしの友だちも、さいきんたいせつな存在とはなればなれになっちゃったの。
あなたとまるで同じだよね。
その縁をとりもどしてあげたかったんだー』

『!? ……その友人とやら、私の知っている者、ということか?』

『うんっ』

『…………』

無邪気に笑う少女とは対照的に、幻黒竜は顰め面で黙り込んでしまった。
どう返事をするべきか、と悩んでしまっている。

生息数が少ないドラゴンは、知り合いが限られている。
一族で暮らすという竜人族はまた別だが。
幻黒竜同士は皆、積極的に関わりを持とうとせずひっそり生きているのだ。
この幻黒竜と親しい者など、家を出たつがいの父竜か、既に亡き者となった両親、子竜くらいである。他の竜の知り合いに心当たりなどない。
父竜は今は他の家庭を守っているだろう。今になって自分を探している理由が見当たらない。
では……?

母竜の瞳に、すがるような期待の色がほんの僅かに浮かんだ。
そのようなことを期待しても無駄だ、とあわてて自制するが、心は娘を追い求めている。

少女は口元に優しい笑みを浮かべる。
いきなり”友だち”が現れると……その姿に驚いた母竜がどのような行動をとるか不安だったのだ。
奇妙な敵が現れたとみなされて、事情を話す間もなく攻撃されてしまうかも、と考えて、まず自分のみで舞台をととのえた。

母竜は少女ーー大精霊シルフィネシアが望んでいた理想通りの反応を返してくれた。
知性の宿る瞳でネッシーをじっと見つめて、話を聞く体勢になっている。
もう大丈夫。
母竜がなにか発言する前に、ネッシーがふふっと笑った。

『ウルルちゃんっ、いらっしゃいなーー♪』

鈴鳴りの声で可愛らしい名前を呼ぶと、少女の周囲の大地がまるで水面のように変貌する。

『ラビリンス・フィールド・オープン!』

幻黒竜が刮目する。
世界にまたとない水の芸術に視線が釘付けだ。

アネース王国の国属魔法使いの爺様たちがシルフィーネの存在を改めて認知し、広め、多くの信仰心を集めたことと、取り込んだレナの血液効果で、ネッシーは大精霊として多様な能力に目覚めていた。
まず、自分の半径100メートルの領域をラビリンスの範囲として扱うことができる。
シャボン生物を<青の秘洞>から連れ出す事が可能になった。
そしてラビリンスの水面を出現させることで、シャボン生物たちがアネース王国内をネッシーと共に移動することができる。

大地に現れた水面は下方へ深い奥行きがあり、底から、小さな気泡がぷくぷくぷくっと浮かんできていた。
そして地上の空気に触れると、気泡がシャボン玉のように変化して風に乗って空を舞う。
次々とあふれ出てきたシャボンは、太陽の光を浴びて輝き、空間を虹の色彩にいろどった。

母竜はもはや唖然と口を開けているが……まだまだこの程度でネタ切れではない。
レナたちの豊かな感性に影響を受けたシルフィネシアの発想力をなめないで頂きたい。

気泡に続いて、勢いよく湖面から飛び出したのは細身のシャボン・フィッシュの群れ。
いっせいに数百匹が現われ出ると、宙をすいすい泳ぎ、やがて地面に水平になるよう大きなシャボン・リングを作り上げる。
自分たちの身体を嬉しそうに光らせた。

ーー輪っかをくぐるようにして、ついに水面から、体長6メートルはあろうかという巨大なシャボン生物が飛び出してきた!!

”グルルルゥッ!”

水面を通り抜ける時、幻の水しぶきが見えたと思うほどの速度で力強く羽ばたく。
真上にぐんっと飛び、シャボン・フィッシュの輪っかを高速でくぐり抜けると、腹の底から鳴き声を放つ。

どこか甘えたような響き……と母竜は感じた。
風圧に当てられたシャボン・フィッシュたちがはじけて、光の粒子となり地表に降り注ぐ。それはそれは夢夢しい光景であった。

▽シャボン・ドラゴンが 現れた!

“グルルゥ! グルルゥ!”

友だちのネッシーの動きを真似て、翼をたたんでくるりっと華麗に宙返り!
鮮やかに登場してみせた。

シャボン・ドラゴンは涼しげなブルーのウロコを全身にまとっている。
ボディの透明感、羽ばたかなくとも問題なく宙に浮かんでいるのは、<青の秘洞>のシャボン生物である証拠。
派手な羽ばたきはいわゆるパフォーマンスである。

ウロコの形は、この場にいる幻黒竜にそっくりーーただ、その青い姿のとおり、もう地上のドラゴン種とは全く異なる存在に変化しているが。
短い舞いを終えると、体長6メートルほどのシャボン・ドラゴンは、空の高みから幻黒竜を見下ろした。

母竜はこの存在が何者なのか、一瞬で理解していた。
記憶にある姿とは見た目が異なるが……嬉しい時は尻尾を左右に揺らす癖。
表情豊かに、くっと強気に吊り上げた口の端から未熟な牙を覗かせる仕草。
全部、とてもよく知っている!

『私の子……!!』

“グギャルウウゥゥゥッ!!”

“ギャウ! グルルゥ!”

二体のドラゴンは森中に響くほどの喜びの歓声を上げて、勢いよく歩み寄った!
相手が映った黄金のドラゴン・アイには、歓喜の赤色が濃く混じっている。
幻黒竜は興奮状態の時、瞳に赤色が現れる。

『おかーさぁんー!』

母と呼ばれたのはいつ以来だろう。
狩りの練習を始めたあたりで、子の親離れのためにと『母』呼びを卒業させていたのに。
こんなにも嬉しくて、注意する気なんてまるで起きない。
母竜は大粒の涙をこぼしていた。

ぐっと背を伸ばした母竜と、宙にたゆたっている子竜が愛おしそうに頬をこすり合わせる。
何度も何度も。
ヤマネコがじゃれあっている風景によく似ている、とネッシーがクスリと笑う。

ふと、母竜が強く頬を寄せた時、強靭なウロコの端がシャボン・ドラゴンの口元に引っかかり、そこだけを弾けさせてしまった!
一部分がえぐれるように光の粒子となって消えてしまい、母竜は驚いてギョッと動きを止める。
また子がいなくなってしまうのではないか……と恐ろしくなり、少しだけ後ずさった。

当の子竜はどこか大人びた苦笑を浮かべて、のんびりとシルフィネシアを振り返る。

『ネッシィー。口元、こわれちゃった。なおしてー』

『いいよー! [ラビリンス・メイキング]……プチ・リザレクション!』

破格の魔法効果が、ただひとりのためだけに使われた。
涼しげなドラゴンのシャボン・ボディ内部に光が満ちる。クルルゥ、と心地よさそうに喉を鳴らしてみせた。

眩しそうに母竜が目を細める。
輝きが収まると……えぐれていた口元が綺麗に修復されている!
それに、ボディの青色が濃くなっているように感じられた。

『あれ? ネッシィー?』

『せっかくだから ボディの強度を上げてみたのよー♪
今のじょうたいなら、こうげきスキルをつかわれたりしなければ もうこわれちゃう心配はないよー?
いっぱい頰ずりしーーましょっ』

『ほんと! やったぁ。さすが大精霊様〜』

『もーーっと崇拝してもいいのよー♪』

母竜は、親しげに会話するふたりを驚愕の表情で見ていた。

(今、私の子はなんと言ったのだ……? 大精霊。そのような存在が、本当に……!?)

目の前で行われたパフォーマンスの数々がこの少女の力なのだとすれば、説得力は十分すぎる。
それに亡くなったはずの子竜とこうして会話できているのも、奇跡のようなものだ。
精霊など……もはや伝承として聞き繋いでいただけの、幻のような存在だが……。

母竜の耳にはじゃれる二人の声が軽やかに響いていて、すんなりとその仮説を信じこませていた。
ほうっと息を吐いて、穏やかに目元を緩める。

『風と水の乙女シルフィーネ……。貴方がそうなのか?』

静かな声で話しかけた。元に戻ったウルルの頬を撫でていたネッシーがぱっと振り向く。

『ん? あのね、ちょっとちがうのよーー』

『おや?』

『まえはシルフィーネだったのー。でもね、いまのわたしは創造樹にやどる大精霊シルフィネシアなんだーー。ぱふぱふーーんっ!』

『ネッシー、すごいんだよーー! グルルゥ!』

『創造樹……!? 大精霊様……そのような方が、私の娘とともにいるなんて……』

母竜が感嘆のため息を吐くと、ネッシーとウルルが嬉しそうにハイタッチしてみせる。
驚かせちゃったぜ! と言わんばかり。

あまりにも仲良しな仕草をみせられて、母竜は思考が追いつかず沈黙した
母の困惑に気づいた子が、漆黒の身体にくるくるとまとわりつく。軽やかなシャボン生物の動き。

『ねぇねぇ。たくさんお母さんに説明しなくちゃいけないよね』

『……ああ。ぜひ頼みたい。私は、状況がよくわかっていない。
ただ、お前がこうしてまた現れてくれて本当に嬉しいよ……』

『お、おかーさぁぁんっ』

一瞬で感極まったウルルが、ガウガウと騒がしく泣き出してしまった。
瞳周辺の細かなウロコが波打っている。号泣しているようだ。

これでは、話を聞けそうもない……。
母竜は苦笑して、ネッシーを見やる。

美しい大精霊からは、アイドルばりのスペシャルウインクが返された。
ネッシーは唐突に、流れるような所作で母竜に深く頭を下げる。

母竜がギョッとして、あわてて頭を上げるよう懇願した。
ヒト族にとっても魔物にとっても、精霊はとても尊い存在なのである。
どうして頭を下げたのか? と恐る恐る聞くと、ネッシーは申し訳なさそうにほんのりと微笑む。

『あのね。ぜんぶ、せつめいするねー』

ーーそれからネッシーが語った話は、とにかく驚く展開ばかりだった。
子竜のこと、ラビリンスのシャボン生物のこと、ちょっぴりレナたちのことも。

まず、母竜が知りたいなら……ということで、子竜の最期について詳細に話す。
お互いに『呪術師、すごくヤなやつ!』と意見が一致した。
母竜が腕を喰い千切った話をすると、ネッシーから喝采を浴びる。
精霊はけして博愛主義者ではないし、豊かな感情を持つネッシーは、姉とアネース王国の民を苦しめた呪術師がとても嫌いである。
ここで、このふたりも意気投合した。

呪術師がラチェリを去ってから数日後に、森をさまようドラゴンの魂をネッシーがたまたま発見したらしい。
あまりにも無残な死に際だったので、おそらくこの世に強い心残りができてしまったのだろう……と悲しく思い、『大精霊シルフィネシアは、シャボンの器をつくることができるの。幻黒竜としていきかえることは、叶わないけれど……いっしょにラビリンスで暮らさない? なかまもたくさんいて、たのしいよ!』と魂をスカウトした。
亡くなったドラゴンは、この申し出を快諾した。
ひとりきりで彷徨う現状が不安で、とにかく寂しくてたまらなかったようだ。

ドラゴンと友だちになったネッシーは、大精霊としての力を存分に発揮して、彼女の最高傑作とも言える器を作り上げる。
それが目の前にいる、”シャボン・ドラゴン”。
ラビリンス<青の秘洞>の領域内ならば、自在に行動できて何度でも復活する。
ネッシーと共にほぼ永遠の時を生きる、類い稀な存在になったのだ。

ここまで話して、ネッシーは母竜を真剣な表情で見つめた。

『お嬢さんをかってにシャボン生物につくりかえちゃって、ごめんなさい』

先ほど頭を下げたのは、この事が理由だったのか、と母竜が悟る。
弱々しく鼻息を吐いた。
どのように言葉をかけようかと模索する。

『どうか謝らないで頂きたい。
私は、娘に会えて、とても嬉しいよ。心からこの巡り合わせに感謝している。
自然の理から外れた存在になっていたのには驚いたが……この子は自分の意思でそう決めたのだろう?
もう自分のことは自分で決めるべき年齢なのだ。私は、方針に指図はしない。
大精霊様、この子に未来を与えてくれて、本当にありがとう……!』

母竜はひれ伏すように、ネッシーの足元に深く頭を沈める。
伏せた瞼が震えて、またひと雫、涙がこぼれ落ちた。

『お母さん……嬉し涙?』

『そうだろうな』

『ウルルと、一緒! グルルッ!』

ウルルが嬉しそうに母の顔に己の顔をすり寄せると、こぼれた涙はシャボンボディに吸い込まれてしまう。
あったかいよ、と呟いた。

行動が幼児退行しているな、と感じて、母竜が喉の奥でグッグッと笑う。
久しぶりに会ったからだろうか。
以前から比較的甘えんぼうだったウルルだが、今日はとくに仕草がいちいち可愛らしい。
母竜は全身の力をそっと抜いた。

『お前は、もう名前を贈られたのだな』

幻黒竜が名前を贈られるタイミングは、完全に一人立ちして巣立つ瞬間という伝統がある。
母竜は子とはぐれた当時、まだ名前を贈っていなかった。

『ウルル。いい名だと思った。軽快な響きがとても好ましい』

『言いやすくて気に入ってるんだ! ウルル。
ネッシーが名付けてくれたよ』

『ふふっ、だってシャボンボディがうるうるしてるからーー♪
ぴったりでしょー?』

『ああ。私の子に、素敵な名前を授けてくれてありがとう』

『どういたしまして〜』

ネッシーとウルルがまた、いえーい! とハイタッチする。
楽しく話していたら、いつの間にかウルルも泣き止んでいて、おかしそうに笑っていた。

母竜がグルウゥッ……と声を漏らす。
この子は完全に親の手を離れたのだ、と安心していた。
嬉しかった。もうそんな瞬間に立ち会うこともできないのだ、と諦めていたから。
子の巣立ちは、全ての母にとっての淋しい夢で、輝かしい希望である。

『お前の未来が素晴らしいものになるよう、私は心から祈っている』

少し震えた母竜の祝福の言葉は、慈しみに満ちていた。
ウルルが幸せそうに頷く。

母竜はネッシーに『これから娘をよろしく頼む』と告げて、二人に背を向け、さっと場を立ち去ろうとした。
傷付いた翼が広げられる。

驚いたウルルがあわてて浮かび上がり、飛び立ちかけた母の前に立ち塞がった。
せっかく会えたのにいっちゃうの!? と、悲痛な表情が告げている。

母は苦笑して首を振った。
幻黒竜の親は巣立った子と関わりを持たないものなのだ。
お前の巣立ちを祝う母の気持ちを汲んでくれ、笑顔のまま立ち去らせてくれ……と消えそうな声で告げる。

このままぐずぐずしていたら、また情けなく泣いてしまう、と焦っていた。
立派にのびのびと生きる子の姿を見られたのは素晴らしい思い出である。
あとは竜としての矜持を守らなければならない。
母竜は未練を無理やり断ち切ろうとしていた。

覚悟を決めた母の鋭い眼光にウルルがひるんで、目元をうるうるさせながら友だちを見る。
ネッシーはふわっと浮かび上がって、風をまとってウルルの隣に並んだ。

『大精霊からのおねがい、はつどうーーー! きーいーてっ』

『!?』

なんだと? それは……さすがに無視はできない。
母竜は渋々、いったん翼をたたんだ。
ウルルがホッと肩の力を抜いて、ネッシーがイタズラっ子のようにニッと笑う。

『あなたはウルルちゃんにまた会えて嬉しいって、ありがとうっていってくれたよねーー?
ちょっぴり わたしにおれいしてくれてもいいのよーー♪』

『お礼……? 何を望むというのだ。私はこの身体しか持っていない。ああ、それを素材として望むか?
……構わない。もう思い残すことはない』

『ちっがぁーーぅ! あのねー、こんどの精霊祭でパフォーマンスのおてつだいをしてほしいのよー』

『……説明をしてほしい』

『もちろーーん』

ネッシーは意気揚々と幻黒竜の肩に腰掛けて、驚きの企画について話していく。
ウルルも熱心に相槌を打って、説明を補足し、母竜に参加を訴えかけた。

お手伝いの内容は、精霊祭でラビリンスのシャボン生物たちと王都で芸をするから、幻黒竜にも参加してほしいというもの。
めったに姿を見せないドラゴンの舞いは、アネース王国中の者が喜んでくれるはず! ……と嬉しそうに話すネッシー。
ウルルが『一緒に飛ぼうよ!』と誘う。

しかし母竜はなぜか苦々しい表情をしていた。

『……アネース王国のヒト族のために、か。
はたして、貴方がそこまでする価値があるのだろうか?
私はヒト族に娘を一度殺された。ウルルとこうして出会えたことはとても嬉しいが、あの呪術師をどうしても許せない。
とてもじゃないが、ヒト族を喜ばせる気になれないのだ……』

あー、まあねー、とネッシーとウルルは顔を見合わせて苦笑した。

『あのね。きっとわかってるとおもうけれど、悪いヒト族ばかりではないのよー。
わたしのおねえちゃんは呪術師にきずつけられたけど、たすけてくれたのも、たくさんのヒト族だったもんー。
だからね、好きよ?
おれいにみんなに精霊祭をたのしんでもらいたいの〜』

『ウルルがこうしてお母さんに会いに来れたのも、ヒト族のレナ様が協力してくれたからだよ。
あの子が痛いの我慢してネッシーに力を貸してくれたから、ウルルはラビリンスの外でもネッシーの近くなら飛べるようになった!』

『ふむ』

母竜が考え込む。

『その者。……確か、魔物使いで、従魔を操りウルルにトドメを刺したのではなかったか』

『そうだよ……。でもあの時は仕方なかったと思ってる。
ウルルは呪術師に呪いまみれにされて、大暴れして森を穢してしまってたから。善いヒト族が止めてくれたの。
腐敗した呪いの媒体として生きるのはすごく辛かったよ……だから、早く眠らされてよかったんだ。
ドラゴンとして意思がある時に、ウルルのままで最期を迎えさせてくれたことを感謝しているよ。
レナたちとはシャボン・ドラゴンになってから再会して、お互いにごめんなさいして、もう友だちになったの!』

明るい表情で”許し合ったのだ”と告げるウルルを、母竜は驚きの眼差しで眺めている。

子はいつの間にか、精神的にも成長していたようだ。
これではまるで私の方がダダをこねる子供だな……と考えて、身に纏いかけていた鋭い敵意を拡散させた。
ネッシーとウルルが胸をなでおろす。

『分かった。グダグダとねちっこいことを言って悪かった。
それでは私も、ヒト族に感謝の意を込めて……そのパフォーマンスに参加しよう』

『やったねーー!
じゃあ、もう精霊祭までじかんがないから、はやくフォーメーションのうちあわせをしようよーー』

『昨日だったらレナ様たちもラビリンスにいたのにね。今は疲れて宿屋で休憩してるだろうなー。
お母さんにも会ってもらいたかったけど、残念』

『そのレナというヒト族たちとも、とても仲が良いのだな。
ウルルがとても世話になったのか……私からも、何か特別な礼をするべきか』

『贈り物とかはどう? お母さん』

『考えておこう』

それから三名は、懐かしい幻黒竜の巣に向かうことになった。
ラビリンスの特設ゲートをくぐることができるのは、シャボン生物と精霊だけである。
ラビリンス付近に幻黒竜が現れると騒ぎになってしまうため、また、祭りのサプライズを秘密にしておくために、打ち合わせは巣で行おうと決めた。

また傷ついた身体で飛び立とうとした母竜をネッシーが引き留める。

『あなたのケガをなおしていきましょう〜。
ラララ〜♪ 治療魔法[エクセレント・ヒール]!』

折られた牙も、割れた爪やウロコも、皮膚の傷跡も全てが一瞬で治療されてしまった!
大精霊は白・青・緑魔法がとっても上手に使えるんだよ〜♪ とネッシーは得意げに歌い告げる。
そして最後に一言。

『あのこのおかげなの。レナさまとお呼びーー♪』

『そうか。承知した。レナ様、だな』

『『うん!』』

思わぬところで布教が始まっていた。
将来この母竜に出会って、様付けの翻訳を聞いたレナがオーバーリアクションで頭を抱えるのはまだしばらく先の話。
口コミの力とはかくも恐ろしい。

ネッシーとシャボン・ドラゴンたち、幻黒竜はその後、とても見事な舞いを精霊祭で披露して、王都中の人々をあつく熱狂させた。
地方の街にもシルフィーネたちが現れて、精霊への信仰心はウナギのぼり。
精霊とドラゴン、アネース王国の人々が確かな繋がりを再び手にしたこの瞬間は、王国史に輝かしく記載されて、長く語り継がれていくのであった。

 

 

 

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